日本刀と他国の刀剣の切れ味を比較した結果

日本刀と他国の刀剣の切れ味を比較した結果

刀剣の切れ味

日本刀といえば美術品としてその価値の高さは世界的にも有名です。中には一振り数千万円にのぼる日本刀が専門店で販売されているのを、目の当たりにすることが出来るほどです。しかし何より他国の刀剣に比べても鋭い切れ味でも高い知名度を誇ります。

日本刀と他国の刀剣の切れ味と役割の違い

日本刀は最強の切れ味をもつ刀剣として、中世以降の西洋でも知られていました。何もその切れ味のするどさは日本人が自画自賛しているだけではなく、他国の刀剣と比較しても武器のスペックの高さでは既に高い名声を得ていたわけです。私たちは歴史上の武将や武士たちが、刀をふるって数多の合戦を潜り抜け、先の太平洋戦争でも第一線で指揮官などが中心に使用されてきた歴史を知っています。しかしさかのぼっていつの時代から最強の刀剣の名前を冠することになったのか、あまり知る機会はありません。日本人自身もよく知らない日本刀の特徴について、改めて振り返ってみましょう。

他国の刀剣といえば、西洋のブレードが代表的です。ブレードは両刃が一般的で、まっすぐな刀身だけのようにも思えますが、湾曲した刀身をもつタイプも実用化されていました。あまり外見だけでは日本刀と決定的な違いをみいだすのは難しいかもしれません。しかし戦場における用途を踏まえればその違いは明らかです。西洋の刀剣では切れ味そのものよりも、戦斧のように相手を叩き割る、あるいはレイピアのようにつきさすなどの役割が重視されました。ブレードにおいても同様の傾向が見られ、勢いに任せて相手を叩きのめして抑制して優位にたつことが重視されてきたわけです。

これに対して日本刀は他国の刀剣と比べて何よりも切れ味が重視されました。一閃のもとに敵を切り裂くことが何よりも重視されるなど他国の刀剣とは用向きに違いがあったわけです。

他国からも評価が高かった日本刀の切れ味

日本の地で刀剣が製造されていたのは、古墳時代の倭の国にまでさかのぼることが文献資料により明らかにされています。「古事記」や「日本書紀」などに刀剣に関する記述が見出されるといわれるくらいなので、日本ではかなり昔から刀剣類が登場していたことが窺い知れます。しかし明確に現在にいたるに本当の系譜が誕生を見たのは、平安時代というのが定説です。

鎌倉時代には貴族に代わって武家が台頭し、その武力の象徴として刀をつけ始めた頃です。時期を同じくして刀剣の製造需要が急増するに合わせて、日本各地で良質な日本刀を製造する流派が登場しています。その後も長きにわたり名刀を送り出したのは、中国地方の備前・出雲・伯耆の国や近畿地方の山城・大和あたりの地方に拠点を構えた名工たちでした。国内では日本刀は戦場でも有用性が確認されたため、需要が急増しました。

しかしその名声は日本国内に限定されるものではなく、外国との交易のなかで他国でも武器としての優秀性は広く認識されることになります。古くは平安時代、中国の詩人・欧陽脩は当時の越(現在のベトナムにあたる地方)の商人が名刀といわれた日本刀を買い付けに出むいた話を題材にした詩が作られています。当時の中国は東アジアの覇者であると同時に朝貢貿易を通じて他国とも比較的交易が盛んでした。
当然武器の製造でも高い技術を備えていたはずです。そんな先進国の中国からも日本刀の需要が存在するあたりに、他国の刀剣にはない武器としての優秀さを備えていたものと窺い知ることができます。

切れ味の凄さが伝説になっている日本刀を紹介!

日本刀はもはや他国の刀剣をはるかに凌いで、最強の切れ味をもっていると表現しても過言ではありません。横綱級とも比喩するべき切れ味をもつ日本刀は、平安時代の昔から大切に保存されてきました。日本刀の切れ味を体現する歴史的にも有名な逸品を御紹介します。

太刀「童子切安綱」

日本には天下五剣とよばれる名刀の中に平安時代の古伯耆安綱作の国宝 太刀「童子切安綱」があり、これは源頼光の鬼退治の伝説から由来しています。

平安時代の首都京で悪さをしていた鬼「酒呑童子」(しゅてんどうし)をこの太刀で見事切って退治したことから「童子切」と号が付けられました。

太刀「鬼丸国綱」

また、鎌倉時代の粟田口国綱作で皇室の御物 太刀「鬼丸国綱」も有名です。
時の権力者「北条時政」が恐ろしい鬼が出てくる悪夢に苦しめられていました。ある時、この太刀がひとりでに倒れて、その拍子に、そばにあった火鉢の脚をきり落とすとそこには悪夢に出てくる鬼が彫刻されていたのです。それ以来、悪夢を見なくなったことから鬼の悪夢を断ち切ったということで「鬼丸国綱」と呼ばれるようになりました。

太刀「妖刀村正」

室町時代後期の伊勢国桑名の刀工で世に言う“妖刀村正”です。
その由来は、家康の祖父清康と父広忠は村正の刀で暗殺され、長男の信康は切腹させられる際に村正の刀で介錯され、家康自身も村正の槍で負傷したという処から徳川家にとっては、不吉な刀として嫌われたと伝えられています。
一説には村正帯刀禁止令がだされたとも言われています。そのためかなり多くの短刀は銘の部を削り取ったり、改ざんされた作品が多いです。妖刀村正は逆に徳川家に対して好意を持たない大名は、積極的に村正を求めたと言われております。
ですが、村正を妖刀として恐れたという話は後世の創作で、実際には家康は村正を好み、尾張徳川家に遺品として徳川美術館に残されています。

太刀「へしきり長谷部」

長谷部国重は南北朝時代の山城国の刀工で恐ろしいほどの切れ味を物語る逸話が伝わっています。筑前黒田家伝来の有名な刀「へしきり長谷部」は、信長が、失敗した観内(かんない)という茶坊主を手打ちにしようと追いかけたところ、観内は台所の御膳棚の下に隠れ、棚の下では刀を振り上げて切ることができず、仕方なく棚の下に刀を差し入れあてたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「圧し切って(へし切って)」しまったということです。この逸話から「へしきり長谷部」と号が付けられました。

太刀「七ツ胴落」

試し斬りによって実際に切れ味が証明されている日本刀があります。公益財団法人日本美術刀剣保存協会が指定する重要刀剣の中に「七ツ胴落」と裁断銘が入った室町時代美濃国の刀工 兼房の刀です。おそらく記録が残っている限り「七ツ胴落」という凄まじい記録は試し斬銘としては最高記録です。

まとめ

他国の刀剣と異なって日本刀は何よりも切れ味が重視されてきました。現在の完成形の起源は平安時代にさかのぼりますが、その頃には既に中国など国際的にも日本刀の名声は広く知られていたほどです。現在でも「天下五剣」などをはじめ各種の日本刀の名刀が国宝などの形で保管されています。




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