歴史上で有名な刀鍛冶・刀工
日本刀の基本的な鍛錬法は決まっていますが、職人ごとに独自の製法が考案されて独特の模様を持つ美しい刀が作られてきました。刀匠は完成した日本刀の茎に銘を刻み、自分の名前を後世に残してきました。ここでは、歴史上で有名な刀鍛冶・刀工をご紹介します。
堀川国広 室町時代末期〜江戸時代前期
堀川国広は、もとは九州日向国伊東家に仕えた武士で、同家が歿落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各地で作刀しました。
慶長四年以降は、京都一条堀川に定住し、広実、国次、国安、大隅掾正弘、和泉守国貞をはじめ、阿波守在吉、平安城弘幸、出羽大掾国路、越後守国儔、河内守国助など多くの優れた弟子を育て、慶長十九年に歿したといわれています。
彼の作風は概ね二様に大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものがみられ、京都定住後の作(慶長打)は、それまでのものと作風を異にして、相州上工に範をとったと思われるものが多いです。
主な作品には刀剣乱舞のキャラクターになっている太刀 銘 日州古屋之住国広山伏之時造之 天正十二年二月彼岸 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安(山伏国広)、重要文化財 刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚刁弐月吉日平顕長(山姥切国広)がある。
相州五郎正宗 鎌倉時代末期〜南北朝時代初期
日本刀に詳しくない方でも、「名刀正宗」という名称を聞いたことがあるかもしれません。
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて相模国(現在の神奈川県)で活動した刀工で五郎入道正宗・岡崎正宗・岡崎入道正宗と呼称されています。日本刀の代名詞になるほどの最も有名な刀工で、後の日本刀の作り方に大きな影響を及ぼす相州伝を完成させました。
正宗の作刀は8代将軍徳川吉宗が本阿弥家13代本阿弥光忠に命じて作成させた世に名高い名刀を集めた台帳「享保名物帳」に所載されていて、その中でも吉光・郷義弘と共に「名物三作」に数えられ、「天下三作」と讃えられました。
天皇や公家などの貴族を中心とした政権(平安時代)が終わった後に、武士を中心とする武家政治(鎌倉時代)がスタートします。この時代の日本の首都は鎌倉で、この時代には多くの刀鍛冶が鎌倉に居ました。相州正宗は鎌倉で活動していた刀鍛冶で、新藤五国光の弟子のひとりでした。正宗本人も正宗十哲といわれる優秀な弟子を輩出しています。
相州正宗は炭素量の異なる数種の鋼を巧みにあつかい、また沸の妙味を極め、日本刀の芸術性向上に大きく貢献している。刃文に金筋・砂流しなど多種多様な模様が認められるという特徴があります。現在も相州正宗が作刀した刀がいくつか有名な作品が現存します。
名物 短刀 無銘(日向正宗)は国宝に指定されており、三井記念美術館に所蔵されています。号「日向正宗」とは江戸時代の武将水野日向守勝成の所持していたことから名付けられました。
名物 刀 無銘(石田正宗)は重要文化財に指定されており、東京国立博物館に所蔵されています。号「石田正宗」とは石田三成が所持していたことから名付けられました。刀身の棟に切り込みがあることから別名「石田切込正宗」と呼称されることもあります。
長曽祢虎徹 江戸時代前期
長曽祢虎徹は江戸時代中期の刀工で、元来は越前(現在の石川県)で活動する甲冑師の名工でした。江戸時代に入ってから甲冑の需要が減ったため、長曽祢虎徹は越前から江戸に移り住んで刀工となりました。江戸に移り住んだ長曽祢虎徹は50歳を過ぎていたと伝えられていますが、刀工としての腕前を上げて有名なりました。
一般的に慶長元年(1596年)~安永末年(1781年)にかけて作られた刀を新刀と呼びますが、長曽祢虎徹は新刀第一の名工として知られています。長曽祢虎徹は刀工に転職してから、15年間で200本を超える日本刀を鍛えました。彼の作品で有名なものでは、「石灯籠切虎徹」や「風雷神虎徹」などが知られています。
「石灯籠切虎徹」には古事が存在し、ある旗本が虎徹に刀を注文した際に値切り交渉をしました。これに対して虎徹は激怒して、自身の作品の切れ味を示すために近くに合った松の枝を切り落としたら、その下に合った石灯籠まで切断してしまった、という話があります。旗本は料金を上乗せして購入しようとしましたが、売ってもらえませんでした。
「風雷神虎徹」は、鎺元の樋の中に風神・雷神の彫刻が施された脇指です。
長曽祢虎徹は元甲冑師であったことから、刀身彫刻でも優れた技術を持っていたことが分かる作品のひとつです。ちなみにこの刀は、五・一五事件暗殺された犬養毅が所有していたことでも有名です。
村正 室町時代末期
村正は室町時代後期の伊勢国桑名の刀工で世に言う“妖刀村正”です。
その由来は、家康の祖父清康と父広忠は村正の刀で暗殺され、長男の信康は切腹させられる際に村正の刀で介錯され、家康自身も村正の槍で負傷したという処から徳川家にとっては、不吉な刀として嫌われるたと伝えられています。
一説には村正帯刀禁止令がだされたとも言われています。そのためかなり多くの短刀は銘の部を削り取ったり、改ざんされた作品が多いです。
妖刀村正は逆に徳川家に対して好意を持たない大名は、積極的に村正を求めたと言われております。
ですが、村正を妖刀として恐れたという話は後世の創作で、実際には家康は村正を好み、尾張徳川家に遺品として徳川美術館に残されています。
三条宗近 平安時代中期
三条宗近は京物の最古の平安時代永延頃の刀工とされています。京三条に在住したと伝えられる宗近は古来より謡曲や長唄などでもよく知られています。
その確信出来る遺例は、僅少で「三条」銘の太刀 銘 三条(名物 三日月宗近) 国宝 東京国立博物館蔵と南宮神社所蔵、重要文化財の太刀、また「宗近」銘の若州酒井家より明治天皇に献上し御物となっている太刀が挙げられます。
三条宗近(名物 三日月宗近)作風の特徴は、細身で元幅と先幅に目立って開きあり、反り深く殊に腰元から茎にかけて強く反り、踏張りつき、先の方に行くに従い反りが穏やかとなり俯き小鋒に結ぶ優美な姿形をみせています。
鍛えは小板目肌つみ、柾ごころの肌合や大肌ごころを交え、地沸微塵につき、細かな地景入り、鉄色明るく、淡く乱れ映り立ち、刃文は小互の目・小丁子ごころ・小乱れ風など交じり、小足入り、匂深で小沸よくつき、細かな金筋入り、最も特徴的なのは刃縁にそって総体に二重刃・三重刃・半月形の打のけや湯走りなどが頻りにかかっている点で、区上の焼出しの部分は刃が淡く殊に佩裏は焼落としの状となっています。
帽子は横手の辺で焼きが切れその上は二重刃がかかり先端部のみ焼きが僅かに残存し小丸風に短く返っています。
「三日月宗近」以外にも、三条宗近が作ったと考えられる古刀がいくつか現存しています。有名な物では、毎年7月に京都で行われる祇園祭の山鉾のひとつである「占出山保」の御神体の太刀「三条小鍛冶宗近作御太刀」があります。実物は京都国立博物館に寄託されており、祇園祭の宵山では複製品が展示されます。