岩切り藤四郎(いわきりふじしろう)
「享保名物帳」所載の短刀。長束藤四郎とも。豊臣家五奉行の一人・長束大蔵少輔正家が、豊臣秀吉の遺物として拝領したものだからである。正家は関ヶ原の役に敗れ、江州水口城で自刃した。その後、本刀は福島左衛門大夫正則の手に渡り、子息・市之丞正利に譲られたが、正則も城地を召し上げられたが、正則が寛永元年(1624)に没すると、正利は3000石の旗本に取り立てられた。寛永14年(1637)、正利が没すると、後継がなく、お家断絶となった。福島家から流出の経緯は不明であるが、寛文12年(1672)、豊前中津城主・奥平家から本阿弥家に来て、金70枚の折紙がつけられた。刃長7寸6分5厘(約23.2cm)。平造り。差し表に刀樋、裏に護摩箸を彫る。地鉄は板目肌、地沸えつき映りがある。
(参考文献:日本刀大百科事典 福永酔剣著・図説刀剣名物帳 辻本直男著より転載・引用・抜粋)