大典太光世
大典太光世は「亨保名物帳」所載の国指定国宝の太刀で、現在も前田育徳会に所蔵されている。刃長2尺1分8厘(約66.1cm)、反り8分9厘(約2.7cm)、元幅3.5厘(1寸1分5厘)、先幅2.5厘(8分2厘)
元は足利尊氏よりの伝来と伝えられて足利家三宝剣の一つだったが、足利義昭が天正16年(1588年)に豊臣秀吉から1万石を与えられたお礼に豊臣秀吉に献上した。後に加州前田家の重宝となる。前田家の重宝となるまでの経緯は諸説ある。1つ目は、前田利家の息女・加賀殿は、阿野権大納言実顕の内室だった。その人が腫れの病にかかった時、それを治すため枕刀大典太光世として、阿野家に貸した。しかし、その効果もなかったので、死後、前田家へ返還したという。加賀殿は、初め豊臣秀吉の側室で、後に、万里小道大納言充房に嫁入りした。加賀殿の死去は、慶長10年(1605年)10月13日であるから。この話はそのころ、つまり豊臣秀吉の死後ということになる。しかし慶長5年(1600年)8月調べの「豊臣家御腰物帳」には、すでに記載を欠くことから、それ以前に豊臣家を出ているはずである。2つ目は、豊臣秀吉から徳川家康を経て、将軍秀忠に伝わっていた。秀忠の妹・珠姫は前田利常の妻であるが、それの娘がある「異病の頬ひ」または「邪気の頬ひ」に罹っため、それを払うため、将軍秀忠から大典太光世を拝借して、枕元に置いたところ、たちまち治癒した。さっそく将軍家に返したところ、再発したので、また拝借。快復したので返却したところ、またまた再発した。3度目は拝借に行ったところ、「もう返さなくてよい」と大典太光世を拝領することとなる。3つ目は、病気したのは前田利家の3女で、豊臣秀吉の養女として宇喜多秀家に興入れした人、拝領したのは豊臣秀吉からという説がある。前田家の伝来書にはこの3つ目の由来が記されていることからこの説が有力である。前田家では寛文9年(1669年)、本阿弥光甫に命じて、これに鬼丸拵をつけた。しかしハバキの裏にある桐紋を前田家の梅鉢紋に替え、目貫も梅鉢の紋にした。前田家では延享3年(1746年)の暮れ、藩主・前田宗辰が早世したため、弟の前田重熙が襲封すると、さっそく大典太光世を金沢から江戸に取り寄せた。若い前田重熙はすぐさま見たかったが、前藩主・前田宗辰が前年の暮れに亡くなったばかりで、喪服中だったため諦めた。「喪服中にはご覧出来ない習わし」と西尾隼人が遮ったので、さらばその由来を書い出せと命じた。それが「大伝太太刀小鍛冶薙刀記」と題する由緒書である。
(写真:日本刀大鑑より転載)
(参考文献:日本刀大百科事典 福永酔剣著より転載・引用・抜粋)