青木兼元

青木兼元 青木一重が真柄十郎左衛門直隆を斬ったとされている濃州関の孫六兼元の刀で、重要美術品に指定されている。元亀元年(1570年)6月28日、姉川合戦において真柄直隆を斬った勇者については、青木説と匂坂説とがある。青木

会津新藤五

会津新藤五 「亨保名物帳」所載の相州新藤五国光在銘の短刀。亨保名物帳には、はじめは会津城主蒲生氏郷が所持していて、その子秀行に受け継がれ。秀行が家臣の出頭人森川半弥に与えたものを、森川勘解由の取り次ぎで、金沢城主前田利常

愛染国俊

愛染国俊 「亨保名物帳」所載の二字国俊の在銘の短刀。”愛染”号の由来は茎の部分に「国俊」銘の上に愛染明王像が刻まれていることに由来する。豊臣秀吉が所持していて森蘭丸の弟・千丸(美濃国金山城主 森忠政)に下賜さ

当麻派

当麻派 当麻派は二上山の麓の北葛城郡当麻が故地で、ここに隣接する興福寺・一乗院の末寺である当麻寺に属していたと思われる。当麻「たえま」とも「たいま」とも呼んでおり、始祖が鎌倉末期の正応頃の年代と伝える国行である。 その門

当麻国行

当麻国行 当麻派は二上山の麓の北葛城郡当麻が故地で、ここに隣接する興福寺・一乗院の末寺である当麻寺に属していたと思われる。当麻「たえま」とも「たいま」とも呼んでおり、始祖が鎌倉末期の正応頃の年代と伝える国行である。その門

長有俊

長有俊 有俊は大和国当麻派の刀工で、初代は二字銘をきり、時代を文永頃と伝えており、実在するものに永仁六年紀の作がある。長有俊三字銘に切る作は二代とされており、時代が建武頃で、長の字を小さく、有俊の二字を大きく切る。 長有

千手院派

千手院派 千手院派は奈良の若草山の西山麓の千手谷付近にあった僧院(東大寺系とも興福寺系ともいう)に属した一派といい、大和五派中でも最も発祥が古く、伝書類鑑では平安末期に行信と重弘を祖とする二つの流れの系譜を挙げています。

千手院

千手院 千手院派は奈良の若草山の西山麓の千手谷付近にあった僧院(東大寺系とも興福寺系ともいう)に属した一派といい、大和五派中でも最も発祥が古く、伝書類鑑では平安末期に行信と重弘を祖とする二つの流れの系譜を挙げています。然

龍門延吉

龍門延吉 延吉はは大和物然とした渋い直派出来がある反面、地映りの立つ地がねに丁子の目立つ賑やかな乱刃を焼き備前気質の現れた作もあって異色の刀工である。これら数少ない有名作に比して無銘作で千手院と極められたものは比較的多く

長谷部派

長谷部派 南北朝時代に相模国の広光や秋広とほぼ時を同じくして皆焼という賑やかで豪華な作風を展開したのが山城国の長谷部派です。皆焼とは通常の沸出来の乱刃に加え地中に飛焼や湯走りを交え、さらに棟もさかんに焼くなどした動勢に冨