長曽袮虎徹
長曽袮虎徹 長曽祢虎徹は元来越前の甲冑師、五十歳前後に江戸へ出府。鍛刀の師を和泉守兼重とする説もあるが、確定的ではない。初銘を古鉄、次いで虎徹と切り、「虎」の字の一画を大きく上へはね上げているところからこれを「はね虎」と
堀川国広
堀川国広 堀川国広は、もとは九州日向国伊東家に仕えた武士で、同家が歿落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各地で作刀した。慶長四年以降は、京都一条堀川に定住し、広実、国次、国安、大隅掾正弘、和泉守国貞をはじめ
村正
村正 村正は室町時代後期の伊勢国桑名の刀工で世に言う“妖刀村正”である。 その由来は、家康の祖父清康と父広忠は村正の刀で暗殺され、長男の信康は切腹させられる際に村正の刀で介錯され、家康自身も村正の槍で負傷したという処から
和泉守兼定(之定)
和泉守兼定(之定) 和泉守兼定(之定)は孫六兼元と並んで室町時代後期の美濃鍛冶を代表する刀工で、「定」の字のウ冠の中を「之」と切ることから「ノサダ」と称され、一般に 三代といわれる「疋定(ヒキサダ)」と区別されている。
兼元
兼元 和泉守兼定(之定)と並び美濃鍛冶の両横綱と評される兼元は同銘が相継いでいるが、中でも最も技量的に優れているのは2代で、世上この兼元を指して「孫六兼元」と賞賛している。 兼元は各代とも三本杉と称される尖り互の目の連れ
来国行
来国行 来国行は、名門来派の作風を創案確立した事実上の祖であり、短刀の確実な遺例は寸延びて僅かに反りのついた島津家伝来の僅かに一口のみであるが、太刀の在銘作は比較的多い。国行の作には制作年紀を添えたものは皆無で、その子と
来国俊
来国俊 来国行の子と伝える国俊について、古来より二字国俊と来国俊三字銘のものが同人か否か、未だに確固たる定説には至っていない。両者の制作年記をあわせると弘安元年から元亨元年に及び、この間約四十年、一人の刀工の作刀期間と考
来国光
来国光 山城国来国光は、通説に来国俊の子と伝え、鎌倉時代末葉より南北朝時代前期にかけて活躍し、現存する作刀に見る制作年紀の上限は嘉暦元年で、下限は観応二年である。来派中最も作域の広い刀工として知られ、広狭長短様々な形態の
長船光忠
長船光忠 鎌倉中期に光忠を事実上の始祖とする長船派が興り、長光・真長・景光など多くの良工が輩出され、一文字派に代って大いに繁栄し、長船派は刀剣史上に於いて最大の流派になった。 光忠の作品の多くは大磨上無銘の極め物で、豪壮
長船長光
長船長光 長光は長船派の祖である光忠の子で、長船二代目あり、現存する作は鎌倉期の諸工中最も多いが、いずれも出来にむらがなく、技術の充実していたことが知られる。 その作風は大別して光忠風を継承した感の豪壮な作り込みに華やか